お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2009/12/29

韓半島の連珠文


 
日本の瓦に連珠文があったなら、韓半島にも連珠文のめぐる瓦はあるだろう。

蓮華雲文塼 瓦製 扶余窺岩面外里出土 幅28.0 百済(6-7世紀) 国立扶余博物館蔵
『国立中央博物館図録』は、仏教の隆盛に伴って発達した瓦当は、百済文化の特性をよくあらわしているがとりわけ熊津時代以後に中国梁の影響を受け作られた蓮花文瓦当から百済的様式が成立する。蓮弁内に装飾のない単弁様式が大部分で、蓮弁の端が曲がりながらしなやかに隆起しているのが、一般的な様式であるという。
百済の軒丸瓦には連珠に囲まれたものは見つけることができなかった。
『法隆寺日本仏教美術の黎明展図録』は、扶余にある外里遺跡からは8種類の文様塼が床に敷かれた状態で検出された。瓦が伴出することなどからも、寺院跡であったと推測される。
出土した文様塼はもともと壁を荘厳する壁塼であったと考えられている。中央に単弁八葉の蓮華文を小さく置きその周囲に雲文を配し、さらに外側を連珠円文で丸く囲う。これとよく似た文様が中国の南京でも出土した例があり、六朝の強い影響を受けて成立した文様であろう。四隅には花弁状の装飾があり、磚を並べると十字形の花文が形取られる。木笵(木型)によって作られたもの
という。
間地に十字形の花文が配されるものは、アスターナ出土の人物駱駝文錦(6世紀)や、固原出土の人物故事図漆絵木棺(北魏、5世紀)など中国に先例が見られる。鬼面瓦 皇龍寺出土 統一新羅(7-8世紀) 国立慶州博物館蔵
アケメネス朝のロゼット文の装飾タイル(前550-330年)に似た円文が周囲を巡っている。太宰府政庁東北台地出土の鬼面紋鬼瓦(7世紀末-8世紀初)は瓦に鬼の顔が押し込まれるように大きく表されているが、皇龍寺のものは耳やたてがみのようなものまで表され、頭上には蓮華らしきものまである。
下方左右にある植物文は、十字形の花文が変化したものだろうか。 軒丸瓦 慶州雁鴨池出土 統一新羅(7-8世紀)  国立慶州博物館蔵
『世界美術大全集10』は、統一新羅瓦の始まりは、679年創建の四天王寺と、そのころ造営が開始された雁鴨池に使用された瓦からである。統一新羅瓦はそれまでのやや硬さを見せる古新羅瓦とは大きく違い、まさに華麗・繊細という表現がぴったりするという。
やっと見つけた蓮華文の連珠文軒丸瓦には、蓮華が八重に咲いていた。同書の解説には書かれていないが、瓦につやがあるので、緑釉瓦だろう。
『慶州で2000年を歩く』は、月城と道路を挟んで別宮の雁鴨池がある。新羅時代には「月池」と呼ばれていた。674年に王宮の中に池を掘り、山を築き木を植えて、珍しい鳥や獣を放したという。王の跡継ぎが生活していた建物の一部で、慶州に来た使節をもてなす迎賓館としても使っていたという。 
雁鴨池は統一新羅の宮殿のなかでも華やかな場所だったので、このような装飾的な瓦が作られたのだろう。 軒丸瓦 慶州雁鴨池出土 統一新羅(7-8世紀)  国立慶州博物館蔵
連珠に見えたが、拡大すると珠と珠の間に線が通っている。連珠文も変化していくのだなあ。
中央には鳳凰のような鳥の対偶文が岩の上に留まっている。自然描写のようで、瓦の文様では珍しいのではないだろうか。鳥の姿も、これまで見てきた連珠双鳥文にあらわされた孔雀でなど異なっている。
2羽の鳥は互いに中央の茎を銜えている。茎の先にはふっくらした五弁花があり、それを中心に、藤の花のようなものが両側に垂下している。これも連珠文の変化したものだろうか。
中国の影響から抜け出た統一新羅の独創的な文様かも。  八重咲きの蓮華の瓦は日本には見当たらない。また統一新羅で連珠文のめぐる瓦が679年以降に作られたのなら、久米寺出土軒丸瓦が7世紀前半なので、韓半島から将来されたのではないようだ。
日本の連珠蓮華文瓦は中国から直接もたらされたのだろうか。

※参考文献
「世界美術大全集10 高句麗・百済・新羅・高麗」(1998年 小学館) 
「慶州で2000年を歩く」(武井一 2003年 桐書房)
「国立中央博物館図録」(1986年 通川文化社)
「国立慶州博物館図録」(1996年 通川文化社)
「法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録」(1996年 奈良国立博物館)

2009/12/25

日本の瓦に連珠文


 
日本の瓦にも連珠文がある。

軒丸瓦 久米寺 飛鳥時代末(7世紀前半) 橿原考古学研究所蔵
『飛鳥の寺院』は、文献によれば推古天皇の勅願により来目王子が建立したとされる。江戸時代の絵図には薬師寺式の伽藍配置風に描かれていることから、薬師寺式伽藍配置で、現在の西側に中心伽藍が存在したと考えられている。
瓦は飛鳥時代末の塔創建時のものと考えられた
という。
粒の大きな円文が密に並び、その中に6つの複弁の蓮華が並ぶ。かなり風化しているが、蓮弁の間には覗花弁がはっきりと表現されているのがわかる。
蓮子も数多く、配置が乱雑に見えるが、中心の1つを5個の蓮子が囲み、そのまわりを9個の蓮子が囲んでいるのだろう。
知る範囲では日本最古の連珠円文のある瓦だ。 本薬師寺 7世紀末 飛鳥資料館蔵
文献には、天武天皇が皇后(持統天皇)の病気の治癒を願い建立されたことが記載されており、天武天皇崩御の後は、仏事が行われている。平城京遷都の際、718年に遷ったのちは、城殿町に所在するほうを「本薬師寺」と呼んだ。
複弁蓮華文軒丸瓦、重弧文軒丸瓦、忍冬唐草文軒平瓦などが出土している
という。
軒丸瓦は8枚の複弁、円文は間隔をおいて並ぶ。
軒平瓦は三方が鋸歯文で、上辺にはもっとまばらに連珠文が並んでいる。  連珠円文軒丸瓦および連珠軒平瓦 藤原宮跡出土 7世紀末 飛鳥資料館蔵
『飛鳥の宮殿』は、崇峻5年(592)、推古天皇は豊浦宮(豊浦寺下層遺跡)で即位し、飛鳥時代が幕く開ける。
推古11年(603)に小墾田宮(雷丘東方遺跡)、舒明2年(630)に飛鳥岡本宮(伝飛鳥板葺宮跡Ⅰ期)、皇極元年(642)に飛鳥板葺宮(伝飛鳥板葺宮跡Ⅱ期)、白雉3年(652)に難波長柄豊碕宮(前期難波宮跡)、斉明2年(656)に後飛鳥岡本宮(伝飛鳥板葺宮跡Ⅲ-A期)、天智6年(667)に近江大津宮(錦織遺跡)と遷る(一時的なものは省略)。
壬申の乱に勝利した大海人皇子は嶋宮(島庄遺跡)に立ち寄り、飛鳥浄御原宮(伝飛鳥板葺宮跡Ⅲ-B期)で天武天皇として即位する。
しかし天武天皇が崩御、その意思を次いだ持統天皇は持統8年(694)に藤原宮(藤原宮跡)へ遷都した。そして16年後の和銅3年(710)には平城京へと遷都する
という。
宮殿の瓦も寺院と同じ文様だ。八弁の複弁を持ち、本薬師寺の軒丸瓦に似ているが、彫りが浅い。
同書をみる限り、飛鳥時代の宮殿跡から瓦は出土していない。それまでの宮殿は板葺きで、藤原宮になって初めて瓦葺きの宮殿が建立されたのか。
「古代の瓦」は、外区に連珠文を飾る複弁蓮花文鐙瓦の確実な時代を推し得る遺例は、持統・文武・元明の3代、16年間にわたる皇都、藤原宮使用瓦である。『扶桑略記』は本来寺に用いられた瓦葺きが宮殿にも用いられた最初であると伝えるが、その瓦は鐙瓦で23形式、宇瓦で15形式に細別され、なかでも朝堂出土の1組は最もすぐれ、創建瓦としてふさわしいものである。鐙瓦は複弁蓮花文のまわりに連珠文と外向鋸歯文を二重に飾り、宇瓦は雲文系の偏行唐草文を内区主文とし、外区には、上帯に連珠文、側帯と下帯には鋸歯文帯を飾っているいう。
下の写真は、軒丸瓦は朝堂出土のものとくらべて連珠文が密で、軒平瓦は連珠文の数が1つ多いので、共に朝堂出土の瓦ではなさそうだ。 百済から派遣された寺工や瓦博士が建立した飛鳥寺(法興寺、588年)の瓦に連珠文はない。しかもその後主流となる複弁の蓮華ではなく、単弁である。641年に金堂が完成した山田寺の瓦にも連珠文がない。
前者は蘇我氏、後者も蘇我一族の山田石川麻呂が建てた。連珠文の軒丸瓦は、私寺と天皇の建てた建物との違いだろうか。それとも、百済とは別の系統なのだろうか。

明日香村平吉(ひきち)遺跡出土の蓮華紋鬼瓦には大きな円文がめぐっている。7世紀中頃と、久米寺と本薬師寺や藤原宮の瓦の間に製作されたものだ。しかし、寺院とも宮殿ともわからない。当時それ以外に瓦葺きの建物があったとすると、どのような遺跡なのだろう。

尚、飛鳥資料館では館蔵品は撮影可です。

※参考文献
「飛鳥の寺院」(2007年 財団法人明日香村観光開発公社)
「飛鳥の宮殿」(2005年 財団法人明日香村観光開発公社)
「日本の美術66古代の瓦」(稲垣晋也編 1971年 至文堂) 

2009/12/22

日本にある連珠円文

 
日本にも古くから連珠円文は将来されている。現存の古い連珠文は中国で制作されたものとみられてるようだ。

獅嚙連珠円文刺繍 初唐(7世紀) 大阪府叡福寺蔵
『正倉院と飛鳥天平の染織』は、江戸時代に法隆寺から聖徳太子陵のある大阪府下叡福寺に移されたもの。本来法隆寺の伝存品である。連珠円文内に獅嚙文を一つ、大きく表している。中国の伝統的霊物と西方式連珠円文を組み合わせた東西混合意匠だが、獅嚙はかなり動物風を呈している。それに対して連珠は大ぶりで数が少なく、四方に重角文を配するなど、ペルシャ錦的な感じが強い。初唐頃の製作にかかる渡来品ではなかろうかという。
錦ではないが、大きな連珠をめぐらせている。四方に方形を嵌め込むのは、バーミヤン第167窟の銜珠双鳥文(6-7世紀)、クチャ地方出土舎利容器(6世紀末-7世紀初)などに見られるが、意外と少ない。
また、これまで見てきた連珠円文内の動物やその頭部は横向きで表されてきた。このように正面向きのものは、殷周時代の青銅器にすでに大きく表される饕餮文があって、中国の伝統的な表現だろう。
ただ、饕餮には角がないので、この獅子の角は獅子グリフィンからきているのだろうか。バクトリア出土の装飾板(前5-2世紀)には正面向きのライオンと横向きの獅子グリフィンが表されている。いや、中国には龍という角のある動物が古くから表されてきた。龍の角が獅子の頭についたのだろうか。
これまで見てきた連珠円文の主文とは全く系統が異なるが、大きく開いた口の中にまばらに歯を表すなど、非常にユニークだ。
今回いろいろ調べた連珠円文の中で、一番のお気に入りはこれ。 四騎獅子狩文錦 緯錦 唐時代(7世紀) 法隆寺蔵
有翼馬に乗って騎乗から振り向き様に獅子を射ようとする武人の姿を4組、花樹を中心として左右対称に配した意匠で、周囲に連珠円文帯を巡らした、いわゆる狩猟連珠円文である。正倉院宝物および中国西域のシルクロード遺跡・アスターナ出土品やトルファン出土品などにも同趣の連珠円文あるいは狩猟文の遺例が知られ、7・8世紀頃の唐を中心に盛行した文様である。人物の容貌、冠の形状、天馬・獅子の姿態などにも西方の要素が色濃く残っている。本品の図様は、本来の意味を比較的よく留めているといえる。しかしながら、馬尻の円文内に「山」「吉」の文字が織り込まれていることから、本品の製作地は中国と考えられている。織は三枚綾組織の緯錦という。
この連珠円文も円文が大きく表され、四方に方形文が置かれている。
果樹を中心として左右対称だが、上の狩猟図は人物が外向きに、下の方は内向きになっている。
パルティアンショットでライオンを狩る図は、ササン朝ペルシアによく見られる。シャープール2世狩猟文杯(4世紀)のライオンの表現といい、飛びかかるライオンの口に矢の先を向けるところといい、そっくりだ。異なるのは、杯の方は馬だが錦の方は天馬で、翼の連珠帯までの部分に亀甲繋文がある。そして錦の人物は鎧をつけていることくらいだ。
下側の2頭の馬には足首に銀杏の葉のようなものが、前脚と後ろ脚の片側についている。アスターナ出土の天馬文錦(7世紀)は経錦だが馬の各足首にはリボンがある。また、太原市虞弘墓出土の棺槨浮彫(6世紀末)の馬も各足首にリボンが結ばれている。
このようなリボンの名残なのだろうが、これだけ緻密に織り出しているのに総ての足首につけていないのは妙な気がする。余白としては他の足首に付けるのは無理だったのかも。 紫地鳥獣連珠円文錦 7世紀後半-8世紀前半 正倉院蔵
『正倉院裂と飛鳥天平の染織』は、紫・白・水色・緑・赤の五色の経糸が、紫地に白と緑、紫地に白と赤、紫地に白と水色の3種類に分けられて縦縞状に配置される、すなわち三色一組の経錦である。そしてこの三色一組の経糸が、緯糸と一つおきに上下して織られる。いわゆる平組織経錦技法によっている。一般的に経錦は緯錦より古い技法だが、正倉院裂中の経錦がおおむね綾組織で表されているうちにあって、経錦のなかでもとくに初期的な平組織である点、奇とするに足る。また加えて、主文より副文の菱形唐草文の方がやや大きいこと、主文の連珠の数が少ないこと、文様の輪郭が粗くて階段状であることなど、顕文上からも種々古風なところが多い。使用年次はわからないが、これがもしも本来正倉院の伝存品で8世紀のものとすれば、きわめて珍しい作品といわねばならないという。
上下左右に方形が置かれ、その間の円文は3つと少ない。アスターナ出土の連珠文錦で、円文の少ないもので連珠動物文錦(7世紀)が5つ、そして天馬文錦(7世紀)が4つだった。
主文は2種類ある。左側に並ぶ連珠円には、動物の色でみると左右対称ではなく上下対称になっていて、アスターナ出土の人物駱駝文錦(経錦、6世紀)の系統に近い。
上下対称に織っていく方法から、文様を横向けにして織り上げ、完成すると左右対称になる経錦が生まれたと思わせる遺例だ。たとえば飲酒人物連珠文錦(6-7世紀)や天馬文錦(663頃)など。
一方、右に並ぶ連珠円は、織り方が経方向だが、文様は緯方向となっている。円柱状のものを中心として左右対称に翼のある動物の下に孔雀のような鳥が配されている。しかし、その有翼動物は下側は円柱に対面しているが、上側は円柱の上に立っていて、左右対称にはなっていない。アスターナ出土の動物幾何文錦(455年)よりも古拙な文様表現だ。
このような連珠対偶文錦の草創期のような古様を示す錦が7世紀後半-8世紀前半に制作されたとは思いにくい。錦はずっと以前に作られ、この錦に包まれていた品物がそのまま日本に将来されたのではないだろうか。 日本に残る古い連珠円文は、どれも円文が大きく数が少ない。また、四方に方形が配されるなど、古拙な物、完成度の高い作品共に共通している。制作地が同じなのかも。

関連項目

ササン朝の首のリボンはゾロアスター教

※参考文献
「正倉院と飛鳥天平の染織」(松本包夫 1984年 紫紅社)
「法隆寺 日本仏教美術の黎明展図録」(1996年 奈良国立博物館) 

2009/12/18

敦煌莫高窟の連珠円文は隋から初唐期のみ

 
敦煌莫高窟にも連珠円文はあった。文様はないが、伏斗式天井の角線などに隋時代の窟には連珠文帯がいたるところある。 たとえばこちら
文様について説明のあるものは、中国語の表記に従い、ないものは適当な名称をつけた。連珠円文ではなく連珠文とされているので文様の名称には連珠文を使った。また、引用文は中国文を適当に解釈しています。

狩猎(せき)連珠文 第420窟西壁龕両脇侍の裙(描き起こし図は図の下中央) 隋(581-618年)
壁龕の輪郭を白い連珠が縁取っている。そして一番外側に配置された一対の脇侍の裙に、連珠円文がびっしりと並んでいた。しかし、主文に何が表されているのか、図版ではよくわからない。
『敦煌莫高窟2』は、小袖長袍姿の騎象武士が棒を振り回して襲いかかる猛獣を打ち据えている。図様の起源はペルシアであるという。
解説の描き起こし図を見るてやっとわかった。象に乗った人物が後ろから襲いかかるトラを棒か刀で追い払っているらしい。象には翼が描かれているようだ。
ササン朝ペルシア(4世紀)の狩猟文杯の、騎馬の王が後ろから襲いかかるライオンに弓矢を向けている図に似ている。ササン朝の馬には翼はない。
太原市虞弘墓出土の棺槨にも、騎象の人物が後ろから襲いかかるライオンに刀を振り上げている浮彫があったが、連珠円文内ではなかった。象には翼はなく、丸い布が象の背中に掛けてある。敦煌の図もそのようなものを写したのだろう。ササン朝の騎馬狩猟文が起源だろうが、この図柄の直接の影響はソグドからのものだろう。 米字形蓮華連珠文 第402窟人字披頂部 隋(581-618年)  
同書は、人字披頂脊椎部を蓮華連珠文が装飾する。連珠文内は米字形(十字形交錯よりなる)蓮華図案で、隋代晩期に出現する新しい文様という。 
主文は四葉花文ではなく蓮華文らしい。第407窟窟頂にはよく似た連珠円文が半分になって垂飾の小札(こざね)に描かれている。
連珠円文列を白い連珠帯が囲み、両側の千仏との境界線となっている。このような連珠帯は隋窟の随所に見られる。 対馬連珠文 第277窟西壁龕口 隋(581-618年)
龕口の外に沿って対馬連珠文が描かれる。連珠の中心におのおの二頭の翼馬が向かい合い、その間には忍冬花叶文がある。左右対称が基本だが、微妙に変化がある。連珠文の代表作であるという。
この2つの連珠円文が交互に並んで文様帯をつくっている。左は天馬とすぐにわかったが、右は天馬というよりも騎馬人物像にも見える。 禽鳥連珠文 第401窟窟頂藻井 隋(581-618年)
伏斗式天井は外周に禽鳥連珠文があるという。
連珠円文内の鳥といえば首にリボンをつけた鴨や孔雀で、横向きだったが、ここでは正面向きの猛禽あるいは孔雀になっている。翼が褪色してわかりにくいが、翼を半分広げて威嚇している姿を表しているようだ。 花連珠文 第394窟北側 隋(581-618年)
風化がひどくて元の色や何を描いているのかわからないが、四弁花文もあるらしい。これも蓮華かも。 蓮華連珠文 第57窟南壁説法図脇侍菩薩の腹布 初唐(618-712年)
菩薩は衣服をまとわない姿で表されるが、初唐の菩薩は腹部に左肩から紐で吊したような布をつけている。その幅のある紐と布に連珠円文内に八弁花文が表されている。 敦煌莫高窟の連珠円文には、上下左右に方形文も小連珠円文もなかった。
初唐のほかの窟には連珠円文は窟頂藻井周辺の垂飾の中に見られる程度になってしまう。第329窟窟頂垂飾の小札の1つ1つに描かれているものが簡略化された連珠円文であることがわかる。
西方からシルクロードを通って運ばれた連珠円文が中原で中国化され、それが隋期になると敦煌でも表現されるようになったが、初唐になると蓮華文になって、連珠円文はなくなってしまう。連珠円文は、敦煌莫高窟ではごく限られた一時期にだけ現れた文様だった。

※参考文献
「中国石窟敦煌莫高窟2」(1984年 文物出版社)
「中国石窟敦煌莫高窟3」(1987年 文物出版社)

2009/12/15

中国のソグド商人

 
連珠円文の緯錦はササン朝ペルシアではなくソグド製だった(『古代イラン世界2』より) というが、ソグド人はソグド錦をもたらしただけでなく、中国で暮らしていたことが、各地で発掘される墓からわかってきたらしい。

石棺床飾板 大理石 北周-隋時代(6-7世紀) 個人蔵
『天馬展図録』は、墓主は国際商人として中央ユーラシアの東西を往来し、ゾロアスター教(拝火教、祆教。ペルシア起源)を信仰したソグド人であった可能性が高い。
本品にみられる円形連珠文に天馬を配した意匠はペルシアに起源をもち、ソグド人によって、その故地であるブハラ、サマルカンドなど中央アジアのオアシス都市を経て、中国にもたらされたと考えられている。
ササン朝ペルシアで多用された連珠円文の中に有翼馬を描いている。それは単なる装飾ではなく、石棺の主の来世に対する配慮であろう。
天馬の図像は北周・大象2年(580)の史君墓石槨や、隋・開皇12年(592)の虞弘墓石槨(ソグド系の図像構成をもつ)などにもみられ
るという。
馬の他に鹿・大角羊が連珠円文の中に表されているが、翼以外には、首に鈴、背中にリボンがついている。  棺槨部分 白大理石に彩色 山西省太原市晋源区王郭村虞弘墓出土 隋・開皇12年(592) 太原市晋源区文物管理所蔵
『中国★美の十字路展図録』は、墓主の虞弘は中央アジアの魚国の出身で、若くして茹茹国(柔然)に仕えてペルシア、吐谷渾などに使いした。その後、北斉に出使して、北斉、北周、隋で官職を歴任し、北周ではソグド人を管掌する「検校薩保府」となったという。
馬上で飲食する墓主の頭上を飛ぶ鴨の首にはリボンがある。馬の足首にもリボンがついていて、ササン朝にはみられなかった意匠だ。このように動物にリボンをつけるというのは、ササン朝ではなく、ソグド人の好みかとも思うが、上の連珠円文内の動物で足首にリボンを付けたものはないなあ。
ササン朝の騎馬図はこちら 棺槨部分 虞弘墓出土
彩色で衣服の文様が残っている。無地の布の縁取りに使われたものは連珠円文だろう。キジル石窟の寄進者像壁画(7世紀)やアフラシアブ出土の壁画(650年以降)にも見られるが、それ以前にソグド人が連珠円文の文様のある布を身に着けていたのだ。
しかも、シルクロードの終着点で、隋の都があった長安よりもずっと北東部にある太原で。墓があったということは居住していたのだ。きっと連珠円文を縁取りにした服を身に着け、太原の街を歩いていただろう。
西安と太原の位置関係は、グーグルマップでこちら  『文明の道3』は、ソグド人たちは、中国の町の中に植民集落を築き、中国の社会に入り込んで暮らしていた。実はこれが、彼らの交易戦略の第一歩だった。
中国社会に入り込みながら、ソグド人たちは絹の交易に手をそめていった。
ソグド人たちは、絹を持って西への道をたどった。敦煌から発見されたソグド人の交易の姿を描いたとされる壁画も、絹の反物を持った数人の商人がまさに山賊に襲われている様子を写している
という。
敦煌莫高窟第45窟にその図がある。しかし、右端の不思議な形の建物に関心があったため、刀を持った強盗に命乞いをしている人達が何を持っているかまでは見ていなかった。鞍の両側の荷物は反物なのだろう。
顔は目深高鼻のソグド人のようだが、他の中国人と同じような服を着ている。連珠円文の縁取りもなさそうだ。第45窟の壁画はこちら

ところで、太原のソグド人着ていた服の連珠円文はどんなものだったのだろう。中国製だったのだろうか。それともソグド錦だったのだろうか。
ソグディアナの絹織物に詳しいアベッグ財団のレグラ・ショルタさんによると、「絹糸が十分に手に入るとソグド人たちは自分たちの手でシルクを織るようになりました。交易の民であったソグド人たちは、当時の流行について、的確な情報をつかんでいました。
彼らは、何が好まれるのか、何が好まれないのかを把握していました」
という。
きっと最新の意匠の連珠円文を身に着けて、街を歩いていたのだろうなあ。それを目にした中国人たちが欲しがるように。

そういえば、北斉(550-577年)の石槨線刻の商談図には、胡服独特の派手な飾りの服(『中国★美の十字路展図録』)の胡人が登場する。その胡服には二重の円文が縁取りになっているて、これもまた連珠円文を表したものだろう。
同図録は、他の図では墓主が鮮卑帽をかぶっているところから、北斉の統治階級の鮮卑人とも考えられよう。ソグド商人と交渉のあった人物が東方の山東省清州にもいたことは驚きであるという。
清州は山東半島の付け根にあたる。ソグド商人は、半島から中国の商船に乗って新羅まで行っただろうなあ。慶州掛陵(798年頃)の石人にソグド人風の人物が表されていても不思議ではないのでは。

関連項目

ササン朝の首のリボンはゾロアスター教

※参考文献
「季刊文化遺産13 古代イラン世界2」 2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団  
「天馬展図録」 2008年 奈良国立博物館
「中国★美の十字路展図録」 2005-2006年 大広
「文明の道3 海と陸のシルクロード」 2003年 日本放送協会  

2009/12/11

対偶文の起源は中国?

 
対偶文という文様は中国的なものではないかと思う一方で、生命の樹に両側から草食獣が前脚を掛ける場面が浮かんできたりもする。中国では5世紀よりも前に対偶文はあるのだろうか。

騎士対獣文錦 経錦 アスターナ101号墓出土 5-6世紀 新疆ウイグル自治区博物館蔵
『中国★美の十字路展図録』は、渦巻文の円環の中に動物を主題とした文様を配し、円環の連接部分を大輪の花で飾っている。円環内には、白象、騎馬狩猟、獅子、駱駝が表され、瑞雲、獲物の鹿、香炉なども織り込まれている。円環外の空間は、馬や龍のような文様が配されている。なお、この錦の上端に織耳が残っていることから、経糸方向に上下打返しによって連続文様を織り出していることがわかるという。
アスターナ北区302号墓(663年頃)出土天馬文錦 やアスターナ北涼敦煌太守墓(455年)出土の動物幾何文錦のように、色の薄い縞がある。
上下左右の大きな花文は蓮華にも見えるが、このように連接部に花文があるのは連珠円文よりも先に見られる。中国的な要素だったのだろうか。
連珠孔雀文錦(北朝時代、高昌時代説も、5-6世紀)とほぼ同じ頃に制作されて、騎乗する馬や、鹿の表現が似ている。
連珠円文と渦巻円文が同時期にあるのは、連珠円文の錦が作られ始めた時期を示しているようだ。連珠円文が描かれている人物故事図漆絵木棺や亀甲繋文が連珠で表された忍冬連珠亀背文刺繍花辺が共に5世紀後半なので、これらに近い時期に制作されるようになったのかも。 羊文錦 経錦 ローラン故城東7㎞の高台墓地2号墓出土 後漢(後25-220年) 新疆ウイグル自治区社会科学院考古学研究所蔵
藍色の地に、黄色の糸で文様を織り出している経錦である。菱格子の文様の中に、向かい合う2頭の雄の羊が織られている。後ろ足を蹴り上げて跳ねている姿をしている。文様のデザインは爽やかで優雅であるという。
後ろ足を跳ね上げる動物は中国風とも思えないが、どの地域に見られるのかもわからない。頭上には十字の中心に花文のようなものが表されている。
菱格子の上下左右には四弁花文のようなものが配されている。やっぱり接合部に花文を置くのは中国の意匠だったのだ。舞人動物文錦 経錦 戦国時代(前4-3世紀) 全体幅50.5㎝単位文様長5.5幅49.1㎝ 湖北省江陵県馬山出土 荊州博物館蔵
緯(よこ)方向に全幅にわたって織り出した経錦で、単位文様は上下に配列された7組の異なった動物と舞人によって構成され、それぞれは中に龍文と幾何学文をもつ長方形を組み合わせた山形で区切られている。向かって右から、第2組は二人の舞人で、冠をかぶり、長袍を着て深黄色の腰帯を締め、飾り物をつけ、2本の足を露わにして両袖を翻して歌舞の様子を表している。第3組は高い冠毛のある一対の鳳凰で、羽を広げ長い尾を巻き上げている。鳳凰の頭上には杯状の菱形文飾りがあるという。
この画像にはないが、第1組は首をもたげた長い尾を巻いて身をくねらせる一対の龍、第4組は相対する一組の龍、第5組は一対の麒麟、第6組は頭をあげて鳴いているような一対の鳳凰、第7組は長い尾を巻いた一対の龍という。
鳳凰は中国風の冠を被っているのは、鳥の頭部に冠状のものをつける原形だろうか。
鳳凰の区画には、足元にも小さな三角形状のものがあり、その下ある左右対称の90度に折れ曲がったものは、対龍文の変化したものか。
その文様は武人の区画の上方に、上下逆に表されている。その下に太陽が下半分表され、武人が長い袖を振って礼拝しているようだ。
この鳳凰は連珠孔雀文錦の孔雀へと繋がるだろうか。 そういえば、青銅器の饕餮文は顔だけのように見えるが、左右に胴体があって、顔の中心線から左右対称になっている。その例はこちら
対偶文は、ウルク遺跡付近出土の円筒印章(前3200-3000年頃)に女神を中心に2頭の羊が表されるなど、メソポタミアには古くからある。
しかし、対偶連珠円文の起源となる対偶文は中国と考えて良いのでは。 

※参考文献
「中国★文明の十字路展図録」(2005年 大広)
「中国美術大全集6 染織刺繍Ⅰ」(1996年 京都書院)
「世界美術大全集東洋編1先史・殷・周」(2000年 小学館)

2009/12/08

アスターナ出土の連珠円文に対偶文

 
トルファンのアスターナ古墓群からは単独の動物あるいは動物の頭部を連珠円文で囲んだ緯錦(ぬきにしき・よこにしき)が出土していて、今のところソグド錦説が有力だ。それについてはこちら
動物文には互いに向かい合うものがあって、対獣文あるいは対偶文と呼ばれているが、ここでは対偶文とする。キジル石窟の鴨連珠円文壁画(7世紀)は、連珠円文内に1羽ずつ入ったものが互いに向かい合っているが、アスターナ出土の緯錦には1つの連珠円文内で向かい合うものが見られる。

連珠孔雀文錦覆面 経錦 北朝時代(5-6世紀) 新疆ウイグル博物館蔵
『シルクロードの染織と技法』は、連珠円文の中に向かいあって羽を広げる孔雀と宝瓶を置き、円文と円文の間には一対の翼馬と一対の鹿文を配している。経錦で織られた中国における連珠円文の早期の好例であるという。
しかし、『中国美術全集6染織刺繍』は、制作地を高昌としている。連珠の円環内には向かい合って舞う孔雀が飾られており、その上は蓮の花の化生文で、下は忍冬連珠文で飾る。連珠の円環外の空白部分には後ろを振り返る状態にした対鹿・対馬文も飾られているという。
単独の動物を囲む連珠円文の上下には方形、左右には小連珠円があったりするが、この作品にはそれがない。
羽を広げた力強い孔雀は、トムシュク、トックズ=サライ大寺院B出土の瑞鳥文(6-7世紀初)に似ている。時代からすると、トムシュクの瑞鳥が中国北朝の影響を受けているということになるだろう。頭上に表されているのは冠毛だろうか。尾羽は図式化されているが、足はリアルな表現だ。
間地の向かい合う天馬や、互いにそっぽを向く鹿の表現も、単独像のものよりも図案化されておらず、別の系統のものだろう。
また、アスターナ出土のソグド錦の円文よりもずっと整った円形に織られている。同出土の人物駱駝文錦(6世紀)は漢族による初期の錦のように思ったが、それより以前に作られた可能性がある。
制作時期から考えると、まるで、連珠円文の起源は中国のようだ。  飲酒人物連珠文錦 経錦 6-7世紀 長12㎝幅12.5㎝ アスターナ507号墓出土 江蘇省南通紡績博物館蔵
『中国★文明の十字路展図録』は、黄色の地に、濃紺や緑色などの経糸で文様を織り出した平組織の経錦である。大きな連珠文の中に2人の人物を左右に配し、その中央には底の尖った大きな壺が置かれている。人物は、丈の長い筒袖の服にベルトを締め、長いブーツを履いた胡人の服装をしており、高い鼻の面貌は明らかに異国の人物を表現している。彼らの口先には酒を飲むためのリュトンが織り込まれており、中央の壺はワインを入れる容器なのであろうという。
ほつれた部分を見ると文様を紡ぐ糸は緯(よこ)に通っているので、緯錦だろうと思ったが、錦の上端に織耳が残存していることから、左右対称のこの文様が経糸方向に上下打返しによって連続して織り出されていたと考えられるという。
文様を横向きに織った方が、経錦は織り易かったのだろうか。18号墓出土の人物駱駝文錦(6世紀)は経錦で上下対称に織られていた。同じようにして図柄を横向きにして織ると、中央(リュトンとリュトンの間)からは逆に織っていけば良いので、文様を織るという点では便利だったのだろうか。それとも緯錦の技術が導入されていなかっただけか。
上方にものがある孔雀文錦とは違い、この作品では中央にものを置いている。
連珠円はほぼ連珠で構成されている。左右には花文らしきものがありそうだ。 鳥連珠文錦(部分) 経か緯か不明 唐(7世紀前半) 長28㎝幅16.8㎝ アスターナ134号墓出土 新疆ウイグル博物館蔵
『中国★文明の十字路展図録』は、黄土色の地に、赤や白などの色糸で文様を織り出した錦である。鳥と連珠文による文様帯を上下に配している。連珠文は白い連珠からなり、左右の連接部分を赤地の方形で飾っている。連珠文の中は赤地に2羽の鳥が対面し、いずれも頭上に三日月と太陽を表す円形を戴き、台の上に立ち、首にはリボンが付く。錦の表面を見ると綾組織の緯錦と考えられるが、経糸方向に上下打返し(図版では左右方向)によって連続文様を表した経錦である可能性も捨てきれない。なお、この錦が出土した墓からは、唐の龍朔2年(662)の墓誌が出土しているという。
織り端がないと経錦か緯錦か特定できないらしい。
連珠文の上下には地色と同色の方形がある。左右の赤い方形共に、中に小さな白い方形が配されている。
つま先立った短い台には連珠がいくつか通り、。翼にももっと小さな連珠が並ぶ。
頭上あるのは孔雀の冠毛ではなく、三日月と太陽を表す円形という。ソグドの双鴨連珠円文錦(8世紀)にも似ているが、ソグドには頭頂の飾りがない。
足には蹴爪があるので、カモではなくキジ科の鳥であることは確かだ。首のリボンはまっすぐ横にのびる。 天馬文錦 経錦 唐、永徽4年(663)頃 アスターナ北区302号墓出土 
『天馬展図録』は、頭上に花冠を帯びて向き合った天馬の間には花樹はなく、下方に蓮花、天馬の三角の斑入りや小さめの翼の形、首に翻るリボン、足に結ばれたリボン。円環と円環を繋ぐ八弁花文。
経糸で文様を織り出す経錦という、中国では緯錦に先行する古様な技法によるもので、その特色は、文様表現を無視して経糸方向に縞状に分割される帛面に表れている
という。
こちらも文様を横向きにして経錦の技法で織ったようだ。確かに下半分は布の色が薄い。アスターナ出土の動物幾何文錦(455年)に色の薄い縦縞があるのと同じらしい。
上の鳥の頭上にある三日月と太陽を表す円形が変化したものが華冠になったのだろうか。
たてがみにつけられたリボンの表現が珍しい。足にもリボンがついており、孔雀文錦の天馬にはないものだ。ササン朝ペルシアの銀皿に、王の乗る馬の首や足首にリボンがたなびいていたものがあったように思うが、今回は探し出せなかった。 対偶連珠文錦で見つけることのできた最古のものは中国製だった。起源は中国と考えてよいのだろうか。

関連項目

ササン朝の首のリボンはゾロアスター教

※参考文献
「中国★文明の十字路展図録」 2005年 大広
「中国美術大全集6 染織刺繍Ⅰ」 1996年 京都書院
「天馬 シルクロードを翔ける夢の馬展図録」 2008年 奈良国立博物館 

2009/12/04

アスターナ出土の連珠動物文錦はソグド錦か中国製か

 
連珠円文の内側に動物意匠を表した錦はササン朝ペルシア製ではなくソグド製であるという。しかし、同じ作品を中国製としている文献もある。ソグド錦という決め手はどこなのだろう。

連珠猪頭文錦 アスターナ325号墓出土 緯錦 顕慶6年(661年)以前 新疆ウイグル自治区博物館蔵
ソグド錦の代表とされる作品である。
しかし、『中国美術大全集6染織刺繍Ⅰ』は中国製と見ているようだ。黄色の綾地に濃紺・灰緑・白色の綾文で文様を織り出している。連珠の円環内には猪頭文があり、連珠の環の上下に方文を、左右両側には小連珠円環と花を飾っているという。
唐時代の制作としているのは、顕慶6年の墓誌が出土しているからだろうか。織り方の特徴などは書いていない。
『シルクロード絹の道展図録』は、332号墓出土。緯錦。主文は上下に方形文を置いた連珠円文で、円圏内には牙をむき出しにした厳めしい猪の頭のみが横向きに納められている。隣の連珠円文とは四弁花文を置いた小連珠円でつなぐ。
ササン朝ペルシアにみられる意匠のひとつである
という。
制作地を特定していないなあ。  連珠華冠鳥文錦 アスターナ332号墓出土 緯錦 唐 新疆ウイグル自治区博物館蔵
『中国美術大全集6染織刺繍Ⅰ』は、黄色の綾地に、濃紺・白・灰緑色の綾文で文様を織り出している。連珠円環内には鳥文を飾っており、その鳥は口に連珠をくわえて、頭には華冠をかぶり、首と翼に連珠を飾っている。非常に華麗であるという。
こちらも上下に方形を、左右に小連珠円を配している。
キジル石窟出土の鴨連珠円文壁画(7世紀)やトルファン出土の連珠紋錦(時代不明)と比較してみると、キジルが首飾りとすると、アスターナは耳飾り程度、トルファンはもっと小さい。
キジルの風にたなびく2本のリボンは、トルファンは1列で2つの三角を繋いだものになっている。アスターナは三角というよりもV字形が3つずつ2列になって横に伸びている。同書では華冠と見ているようだ。
カモの体には、キジルは胸・羽の付け根・尾の付け根の3箇所に連珠帯があるが、トルファン・アスターナ共に尾の付け根にはない。しかし、アスターナは体の表現がキジルより自然だ。トルファンは大きな円文となっている。
キジルは足の下に連珠帯があるが、トルファン・アスターナ共に何も踏んでいない。またキジルの足は平たいが、トルファン・アスターナ共に大きな爪のあるしっかりとした足に表現されており、蹴爪がある。 大鹿文錦 緯錦 アスターナ332号墓出土 唐(7世紀前半) 新疆博物館蔵
『中国美術大全集6染織刺繍Ⅰ』は、黄色の綾地に濃紺・果緑・灰緑色の綾文である。円環の中央には頭を高くして歩いている姿の鹿文があり、周りには連珠文を、その上下左右には花を飾っている。文様の様式は、ササン朝ペルシア時期の錦とすこぶる類似するという。
やはり中国製とみている。 
『シルクロード絹の道展図録』は、連珠文を巡らした円圏内に、頸に付けたリボンをなびかせ、胸を張るごとく堂々と行進する雄々しい姿をした1頭の鹿文を納める。頸にリボンを表す文様は、ササン朝ペルシアで流行した意匠といえる。なお、隣の連珠円文帯とは中央に方形を置いた小連珠円でつないでいる。織りの技法は、漢代の錦の伝統を受け継いだ経錦(たてにしき)ではなく、西方に起源のある新出技法の緯錦(ぬきにしき)となる点が注目される。この技法は、中国内地では唐代に入ってから織られるようになるという。
同図録も唐とみているようだ。
ササン朝で6世紀に猪頭文はすでに成立していたが、『古代イラン世界2』で横張和子氏(古代オリエント博物館)は、連珠円文意匠はサーサーン朝錦としては例外とさえ見えるのである。錦に表されたのはソグドの方が早かった。それを典型的にしたのはむしろソグド錦であったとして、この大鹿文錦を挙げている。 この3つの連珠動物文錦は綾地だが、それは中国製の決め手とはならないのだった。それについてはこちら
黄色の地に似たような地味な色遣いの緯錦であることも共通しているので、同じ土地で織られたのだろう。中国製となると、中国の連珠文錦とは全く異なる表現なので、高昌近辺の制作かなとも思った。
いずれ成分分析が進み、どこで制作されたか特定できるだろう。今のところは、この中では一番新しい文献ということで、「古代イラン世界2」の横張和子氏の説をとって、これらはソグド錦としておこう。

関連項目

ササン朝の首のリボンはゾロアスター教
連珠円文は7世紀に流行した

※参考文献
「中国美術大全集6 染織刺繍Ⅰ」 1996年 京都書院
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 2000年 小学館
「季刊文化遺産13 古代イラン世界2」 2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団   

2009/12/01

アスターナ古墓群の連珠円文に緯錦

 
アスターナ古墓群出土の連珠円文は経錦(たてにしき)よりも緯錦(よこにしき、ぬきにしき)の方が多いかも知れない。

女子俑 緯錦 塑造彩色、木、紙、絹 高30㎝ アスターナ206号墓出土 唐時代(7世紀)
『黄金の道展図録』は、 張夫婦の墓から出土した多数の副葬品のひとつである。張雄は、墓誌の記載によれば、高昌国最後の王・麹文泰の従兄弟にあたり、左衛大将軍などの要職を歴任し、延寿10年(633)、50歳で死去した。また、その夫人は、垂拱4年(688)に死去し、翌年、張雄と同じ墓に追葬された。
この俑は、頭部が塑造、体部が木製、腕が紙製になる。筒袖の襦の上に錦の袖なしの半臂をまとい、裳を着けて綴れの帯をしめる。半臂には、連珠や双鳥など、西方的な文様があしらわれている。
貴婦人の装いそのままの精巧な表現には目を見張るものがあ
るという。
小さな俑に合わせてこのような連珠円文を織ったのだなあと、同展を鑑賞していて感心したものだ。その当時は動物文の連珠円文は中国のものだと思っていたので、中原の錦がはるばると高昌にまで運ばれてきたのだと思った。
この連珠円文は西方風に上下左右に四角い区画を置いている。
双鳥文というが、半臂のため片方の鳥の部分がないのが残念だが、文様が横に滲んでいるので緯錦だろう。  漢人による緯錦とは。

緯錦(よこにしき・ぬきにしき)
操作が煩雑で、織幅や色数、文様の大きさに制約を伴う経錦に替わって、6世紀頃になると、発想を90度転回させ、経糸と緯糸の組織を置き替えた「緯錦」が考案された。経糸のほうは単色とし、杼(ひ)を使って自由に打ち込める多数の緯糸によって文様を表す。中国伝統の経錦が羊毛文化圏である西アジアへ伝播し、太い羊毛でもこの華麗な織物を可能にするための方法が考案された結果、生まれた織技であったと思われるという。
ニヤ遺跡出土の毛織物は西アジアで縦機で織られ、後漢期(後25-220年)に将来されている。 緯織りは絨毯をつむぐ技法からヒントを得たとも聞いたことがある。 連珠団花文錦 緯錦 アスターナ遺跡出土 唐時代(7-8世紀) 新疆ウイグル博物館蔵
『シルクロードの染織と技法』は、赤地に白・緑・藍で、20弁の菊花形花文を納めた連珠円文と、四弁の菱唐花文を織り込んだ緯錦。アスターナからは、ほぼ同文の緯錦が他にも出土しているが、いずれも緯錦による連珠文の完成形といえるという。
連珠円文の中が満開の花文で埋められていて、一体化した花文のようだ。。
北魏(5世紀)の漆絵木棺に画かれていたパルメット風の十字形花文の発展したような文様がこの錦にもある。菱唐花文という表現もあるのか。 獣頭連珠文錦覆面 経錦と緯錦 唐(7世紀前半) アスターナ138号墓出土 新疆ウイグル博物館蔵
『中国★文明の十字路展図録』は、被葬者の面部を覆っていたもので、2種類の異なった錦を上下に縫い合わせ、周縁に平絹を付けている。上段は、小連珠文と十字葉文を規則的に配列した綾組織の経錦で、唐で織られた錦を用いている。下段は、赤地に白、濃紺、緑の緯糸で連珠文内の獣頭などを織り出した綾組織の緯錦である。獣頭は左を向き、口を開けて歯や舌を見せ、目、耳、牙なども表されている。獣頭については猪、或いは熊とされるが、ゾロアスター教の神獣とする説もある。この文様が西に起源し、撚りを加えた経糸を使用して綾組織で織られ、トルファン出土文書に「波斯錦」の記述があることなどから、下段の錦はペルシア産と考えられている。なおアスターナからは連珠文内に同種の獣頭を配した錦が数点出土しているという。
団花文と菱唐花文の経錦は、上の緯錦の連珠団花文錦とほぼ同じデザインだ。同じ図柄の錦が長期にわたって織られていたのだ。
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、ササン朝の文様よりも後代の作品という。ペルシアで連珠円文の錦が製作されるようになるのは、ササン朝滅亡(651年)後だとすると、獣頭連珠円文の方は、ソグド錦だろう。 
中国伝統の経錦とソグドの緯錦を縫い合わせるという、シルクロードの象徴のような覆面だ。  経錦と緯錦の違いはあるが、綾組織という共通点もある。綾組織とはどんなものか。

『シルクロードの染織と技法』は、織物においてもっとも簡単な平織(ひらおり)は、経糸と緯糸が1本置きに交互に、上下に交叉する。これを1本ずつ交互に浮沈させるのでなく、2本以上連続して浮沈させる部分をもつ構造としたものが「綾織」である。光線の反射の変化により、織面に斜文線となって現れるため、「斜文織」とも呼ばれる。
現在知られる最古の遺品として、中国殷墟出土の紀元前18世紀の入子菱文綾があり、綾織の遙かな歴史を物語っている。
東大寺慶讃法要伎楽において、迦楼羅(カルラ)の肩にひるがえる領巾(ひれ)に使用した綾布
 という。 殷の時代からある綾織は、古くから各地に伝わったのだろう。
獣頭連珠文もじっくりと見ると布目が斜めに通っている。白い連珠は、「逆ノの字」になっているものが多いが、中には「ノの字」もある。綾織はソグド錦にも使われていたが、熟練していたわけではなさそうだ。

※参考文献
「シルクロード 絹と黄金の道展図録」 2002年 NHK
「中国★文明の十字路展図録」 2005年 大広
「別冊太陽日本のこころ85 シルクロードの染織と技法」 1994年 平凡社